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2008年9月17日 (水)

いまだに繰り返される「日本人もやっている」で黙らせようとする論法

先日、アクセス解析のリンク元解析を見ていたら、ある匿名掲示板にこの記事のリンクが貼ってあり(よくは読まなかったが)、あいかわらず「そういうことは日本人もやっている」という反論がなされていた。

はっきりいえば、少なくとも今、日本人はこんなことはやっていない。80年代の幼女が万国の路上で売りに出されていたころならどうかわからない。しかし、今こういうことを堂々とやっているのは白人だけである。

なぜなら、相手が白人の場合と日本人の場合とでは現地警察の対応がまったく異なってくるからである。

白人も幼女買春で逮捕されることは多いが、東南アジアで逮捕される事例は、被害者が非常に幼い場合がほとんどで、同時に複数の13歳未満の幼女を自宅やゲストハウスの部屋に引き入れて同時に淫行していたとか、常習であったり、派手なものがほとんどである。目にあまるので近所の住人のうわさになり通報があったような場合である。警察が気がついただけでは容疑者が白人なら見て見ぬふりをするのが普通だろう。カンボジアはいまは多少厳しいかもしれないが、タイではまずそうである。

一方、日本人がこの写真にあるような行為をしていたなら、直ちに現地警察が駆けつけて逮捕するだろう。タイなら現地マスコミも大喜びするはずである。

東南アジアのNGOや国際機関も白人主導であり、できるだけ「アジアで児童を虐待しているのはやっぱりアジア人だ」という結論を導きたがっている。彼らも白人の悪行はなるべく表に出したくないのである。

昔も今も、この種の犯罪行為の「数」から言えば白人が圧倒的である。白人は日本人が東南アジアなどに買春旅行にいくようになる何百年も前から、アジア、アメリカ、アフリカの植民地でこの種の犯罪を普通に、犯罪ともされずにずっと行ってきているのである。

「量の違い」、ということを無視することは欺瞞である。白人が今も続けている圧倒的な歴史的犯罪を、日本人の一件の犯罪で中和することはできない。同じような犯罪行為を行う日本人が数名いたとしても、この種の犯罪の主体が白人であることには変わりはない。

圧倒的な量の違いは「質の違い」なのである。

さらに、「日本人もやっている」という反論で白人批判を中和しようとする言論は、その論者がこの種の行為を「本当は悪いと思っていない」ということを示している。

彼らは日本人がやっている限りはその行為を手厳しく批判し、日本人を非難するだろう。rところが、白人だけがやっているときにはすっかり批判の手を緩めてしまう。それが「悪い」ことであるならば、誰がやっていようと、白人がやろうと日本人がやろうと悪いのだが、彼らにとってはそうではないということだ。

「人権」や「正義」は重要な理念である。ところが、世界史上最も人権や正義を踏みにじってきた白人が人権や正義をもっとも声高に叫んでいる。彼らが偽善者なのは確かだが、だからといって人権や正義が無意味になるわけではない。

つまり、仮に「日本人もやっている」としても、われわれは白人のこの種の犯罪行為を見つけたならばそれを糾弾することができるし、また、しなければならない。人権や正義の普遍性ということはそういうことである。白人は白人の評価を下げるような事実をできる限り隠蔽しようとするのが現実なのだから、なおさら非白人が声を上げなければならない。 

白人によって「アジア人もやっている」という反論がなされる以上に、日本人自身が「日本人もやっている」で黙らせ、議論自体を潰そうとすることが多い。この種の「日本人もやっているで黙らせる論法」は、非常に「ムラ的」で団体主義的で配分主義的な言論だといえると思う。「日本人ならそのようなことをよそに向かって言うべきではない」といって、日本人言論社会の思想統制をしようとしているに等しいからである。
    

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